大学時代からモデルとして活動をはじめ、『MEN’S NON-NO(メンズノンノ)』などで活躍し、大学卒業後はミラノ、パリ、ロンドンでもモデルをしていた尚玄さん。
2005年に製作された映画『ハブと拳骨』(中井庸友監督)に主演して本格的に俳優デビューを飾り、ドラマ、映画、CMに出演するが、日本人離れしたルックスゆえに「日本では役がない」と言われ、2008年、ニューヨークで芝居を学ぶことを決意して渡米。
映画『太秦ライムライト』(落合賢監督)、映画『ストリートファイター 暗殺拳』(ジョーイ・アンサー監督)など国内外の映画に多数出演。主演だけでなくプロデューサーも務めた日本・フィリピン合作映画『義足のボクサー GENSAN PUNCH』(ブリランテ・メンドーサ監督)が公開中の尚玄さんにインタビュー。
◆米軍放送のテレビで英語が堪能に
沖縄県でひとりっ子として生まれ育った尚玄さんは、小さい頃から好奇心旺盛だったという。
「やんちゃでしたね。エビ川と呼ばれるせせらぎがあって、ちょっと深いところもあるので子どもは入っちゃいけないところだったんですけど、そこには海老とか小さいグッピーとかがいたんですよ。
子どもってそういうところが好きじゃないですか。だから親に隠れてそういうところに行って遊んだり、工事現場とかに入って遊ぶのが好きな子でした」
-ひとりっ子だと可愛がられたでしょうね-
「どうですかね? 母親はいまだに過保護なところがあるかもしれないですね」
-小さい頃からスポーツは得意でした?-
「小学校のときにはそんなに得意ではなかったんですけど、中学からバスケットボールをはじめて、そこからわりと体育でもバスケだけじゃなく、いろんな競技をやるようになって。柔道とかも体育の授業の中でもかなり強かったですし、運動神経はいいほうだったと思います」
-スポーツ選手になりたいとは?-
「小さいときはなかったですけど、中学はバスケが強かったので高校も、それで大学も結局体育会系のバスケ部に入ってしまったので、大学までかなり真面目にバスケットに打ち込む毎日でした」
-プロ選手になりたいとは思わなかったのですか-
「そのときはまだプロがなかったんですよ。もともと大学も強いところに行きたいという思いもあったんですけど、高校で自分たちが予想していたほどの成績が残せなかったので、要はバスケ推薦が取れなかったということなんですよね。それで大学にバスケの推薦で行くのはやめようと。国語と英語が得意だったので」
-昔から英語が堪能だったのですね-
「そうですね。昔沖縄では6チャンネルという米軍放送があったんですね。それが基地の外でもテレビのアンテナで受信できたんです。僕は小さいときからNBAが好きで、ずっとその6チャンネルを見ていたので、その間のCMだったり、ほかの番組も耳で聴いていたから英語が得意になったというのはあったかもしれないです」
-高校1年生のときには交換留学もされたそうですが、カルチャーショックなどは?-
「1カ月弱アメリカ・シアトルだったんですけど、最高でした。しかも同じバスケ部の仲のいいメンバー4人で留学していたので、純粋にバスケをやるのも楽しかったですし、初めて触れる異文化で格好もいろいろ学んだりとか…とにかく刺激的な1カ月でした。
シアトルはわりと外国の人に対して慣れているところもあったと思うんですけど、その学校自体が交換留学の受け入れをずっとやっている学校だったので、そういう意味でいうと、カルチャーショックみたいなものはあまりなかったかもしれないです」
-日本に帰ってくるのがイヤになったのでは?-
「そうですね。本当にアメリカにはいつかまた戻りたいなとは思いました。だから大学も留学できるところを最初から選んだんです」
-大学生になってからは半年間アメリカですか-
「はい。最初から大学は4年間で卒業したいという思いがあったので、その4年間のうちに海外で単位が取れる制度がある大学を選んだんです。
普通は海外に留学すると、帰国してからもう1年行かなきゃいけなかったりするじゃないですか。そうならないように4年間で卒業できる大学に行きました」
※尚玄プロフィル
1978年6月20日生まれ。沖縄県出身。国内外でモデルとして活躍後、俳優に転身。2005年製作の映画『ハブと拳骨』に主演。この映画でニューヨークの映画祭に行ったときに出会ったリアリズム演劇に感銘を受け、本格的にニューヨークで演劇を学ぶことに。『COME & GO カム・アンド・ゴー』(リム・カーワイ監督)、『Sexual Drive』(吉田浩太監督)、『JOINT』(小島央大監督)など国内外の映画をメインに活動。プロデューサーとして企画から8年の歳月をかけて完成した主演映画『義足のボクサー GENSAN PUNCH』が公開中。新作『DECEMBER』(アンシュル・チョウハン監督)が2023年公開予定。
◆モデル活動のけじめとして海外で活動後、俳優に
大学在学中、キャスティングディレクターを紹介された尚玄さんは、モデル事務所に所属することになり、雑誌の仕事が次々に入ってくるようになったという。
「当時はハーフブームだったんですよ。僕以外はみんなハーフだったと思います。僕はハーフじゃないんですけど、見た目が日本人離れしていたので。
のちにそれが俳優としては足かせになるところではあったんですけど、当時はそのおかげでその恩恵を受けたところはありましたね」
-モデルとしての仕事が忙しい中、俳優にというきっかけは?-
「映画をやりたいというのが正確かと思うんですけど、映画好きの両親の影響で小さいときから映画をたくさん見ていましたし、高校時代も当時は国際通りの周りにいっぱい映画館があったんですよね。
だから学校帰りとか休みの日は足繁(しげ)く映画館に通って、上映している映画を全部観るくらいの勢いで、それくらい映画が好きだったんです。ビデオとかもよく観ていましたし。
大学卒業後、自分の中ではどのタイミングで俳優に移行しようかと迷ったんですけど、まずはモデルとしてのけじめとしてヨーロッパに行きたいと思って。
ファッションといえばヨーロッパなので、自分の写真をまとめたフォトブックを作って、最初はミラノに1カ月、次にパリに1カ月、そしてロンドンに1カ月という感じで回りました。
その三つの国で事務所、エージェンシーを決めて、その中で自分とどこが肌に合うのか、仕事として自分がどこに求められているのかというのを考えて。
その中でも一番パリがバランスがよかったので、必然的にパリが長くなって、結果的に行ったり来たりを繰り返してですけど、パリには1年くらいいたと思います」
-紹介とかではなく、ご自身で宣材(宣伝材料)を作って売り込みに行くという方は結構いらっしゃるのですか-
「多くはないと思いますけど、何人かいたので僕もそういう風にしました。それで24くらいで一時東京に帰国していたときに、今回の映画『義足のボクサー GENSAN PUNCH』のプロデューサーである山下(貴裕)さんと会ったんです。
当時、山下さんはマネージメントをやっていたんですけど、ちょうどそのときにイランと日本の合作映画もやっていて、彼の『海外と日本の合作映画を作っていきたい』という展望だったり、情熱に惹かれて『この人とやってみたいなあ』と思ったのが僕の転機だったといいますか、俳優に移行するきっかけでした」
-山下さんとは古くからのお付き合いだったのですね-
「はい。僕が24くらいのときからですから。長いですね。もうすぐ20年になります。その経緯で山下さんがプロデュースして映画『ハブと拳骨』が生まれたんです」
◆1年間三線の猛練習をして挑んだ長編映画デビュー作
尚玄さんの長編映画デビュー作となった映画『ハブと拳骨』は、1960年代の戦後の沖縄を舞台に、血のつながらない一家がたくましく生きる姿を描いたもの。尚玄さんは、自由奔放で定職にも就かず、遊び歩いている三線(さんしん)弾きの主人公・リョウを演じた。
-尚玄さんはシナリオハンティングから関わっていらしたそうですね-
「そうなんです。『60年代の沖縄の三線弾きの話を映画にしたい』ということを聞いていたので、そこからキャスティングしてもらって、そのときはまだ確定していたわけじゃないんですけど、三線を買って練習をはじめました。
それまで三線に触ったこともなかったので、今はもうなくなってしまったんですけど、当時は新宿3丁目にあった沖縄料理屋のママがもともと歌い手さんだったと聞いて、そのママのところに修行しに行きました」
-三線を弾いて歌うシーンが結構多かったですものね-
「多かったです。劇中で4曲歌っているので。でも、日本の現場は役が決まってから撮影までが短いじゃないですか。
だからそういう意味でいうと、僕は本当に決まる前からやっていて、結果1年間練習できたので、それは本当によかったなと思います」
-最初から主役だと聞いていたのですか-
「主役候補ではあったんですけど、僕も長編映画の主役は初めてだったし、もちろん製作サイドから見ても不安な部分はあったと思います。『もしそこまで力量が至らなければ、切る可能性もある』と言われていたので」
-結果的に適役でしたね。すごいインパクトがありました-
「本当ですか。ありがとうございます。うれしいです。当時はフィルムで撮っていたんですけど、芝居のイロハもわからなかったので、本当に自分の思いを技術じゃなく、ありったけの感情、魂をフィルムにぶつけたという感じでした」
-尚玄さんは落ち着いたイメージがありますが、主人公のリョウは軽妙で陽気な遊び人。米軍は気に入らないけど、彼らがいないと商売が成り立たないというジレンマがすごくよく描かれていました-
「そうなんですよ。『ハブと拳骨』って、実はいまだに結構コアなファンの方がいらして、わりと定期的に小さな映画祭とか上映してくれるところが多いんです。
それはやっぱり、いまだに日米と沖縄の三角関係の構図が変わっていないからだと思うんですよね。
だから、アメリカ嫌いの沖縄の主人公がアメリカ製のタバコを好んで吸っているという、その皮肉とかも描かれていますし、僕としてはすごく好きな作品ですね、いまだに。
もちろん、芝居の技術という意味でいうと、今とは全然比べ物にはならないですけど、やっぱりあの芝居もあのときしか出せない僕がいっぱい詰まっているので好きな作品です」
-長編デビュー作で主演というのはかなり恵まれていると思いますが、プレッシャーは?-
「プレッシャーはあまりなかったかもしれないですね。準備期間からずっとその場にいられたし、リョウというキャラクターを形成していく時間が結構あったので、今思うと本当に恵まれた現場で主演を務めさせてもらえたんだなって思います。
僕自身はみんなといるときに、自分から率先して何かをやろうとする人ではないんですよ。でも、リョウという人間は、すごく目立つ存在でもありますし、僕とは違うキャラなんですけど、監督から『常に率先してみんなを導いて』と言われていたので、乾杯とかも率先してやるようにして、現場ではずっとリョウのキャラクターでいるようにしていました。
だからお母さん役の石田えりさんに『えりさん、僕は本当はこういう人じゃないんです。違うんですよ』って言ったんですけど、最初は信じてくれなかったですね(笑)」
-それだけリアルにリョウだったということですね。血のつながらない家族ですが、お兄さんとの関係もよかったです-
「僕はひとりっ子なので、兄弟という感覚がわからなかったんです。もともと山下さんが紹介してくれたのがお兄さん役の虎牙(光揮)さんだったので、家に泊まりに行ったりして二人で過ごす時間を作って兄弟の関係を築いていきました」
-完成した作品をご覧になったときは?-
「不思議な気持ちでした。東京国際映画祭のコンペティションに参加という、本当に華々しいデビューができたと思いますし、先日亡くなられたアラン・ラッド・ジュニアという『スター・ウォーズ』のプロデューサーさんが、『僕はグランプリに票を入れたよ』と言ってくださったので、すごい感激しました」
-俳優として生きていくという決意をされたのでは?-
「そうですね。僕はやっぱり映画で生きていきたいなという思いが固まりました」
尚玄さんは、『ハブと拳骨』の後、長編2作目となる映画『アコークロー』に出演。沖縄で語り継がれる精霊キジムナーをモチーフに、東京でのつらい過去から逃げるように恋人が住む沖縄にやって来たヒロインが、恋人の友人たちとともに思わぬ事件に巻き込まれてしまうというホラー。
「『アコークロー』の岸本(司)監督も沖縄出身なんですけど、台本を読んだときに、別れた妻に暴力を振るうシーンが結構多くて、一応慎重に役を選んでいこうと思っていたので、実は最初お断りしたんですよ。
だけど、そのあと岸本監督が、僕が演じた渡嘉敷仁成という男が、なぜもともとは愛していた妻に対してこういう行為に至ったかということをすごく長文でメールをくださったんです。
それを読んだときにその行為を肯定はしないけど、自分の中である程度腑に落ちたところがあって、これならできるなと思って引き受けたんですけど、やってよかったです。
僕も岸本監督とはそのあとかなり一緒に映画をやり続けることになるので、本当にあのとき受けておいてよかったなあって思いましたね。感謝しています」
-主演映画の次の映画もメインキャストと恵まれた状況でしたが、そのあとは順風満帆というわけにはいかなかったようですね-
「はい。だんだんほかの映画とか、ドラマ、そしてそのときはまだモデルも並行してやっている時期だったんですけど、俳優としては順風満帆といえる状況ではなかったです。
とくにドラマとかの配役も外国人の役が多かったんですね。『日本では君の見た目では役はないよ』と言われましたし、すごく限定された役が多くて悩んだ時期もありました」
そして尚玄さんは、ニューヨークで演技の勉強をすることに。次回はニューヨークでの日々、映画『ストリートファイター 暗殺拳』の撮影エピソードも紹介。(津島令子)
ヘアメイク:池田ユリ