もっと詳しく

<p>史実はNHK大河ドラマとまったく違う ── 源頼朝が弟・義経の死に際し実際にやったこと</p><p>史実はNHK大河ドラマとまったく違う ── 源頼朝が弟・義経の死に際し実際にやったこと 三谷幸喜のNHK大河ドラマでは頼朝は首の入った黒櫃を抱きしめて泣いていましたが…… #ニューズウィーク日本版</p><p>源頼朝はなぜ弟・義経と決裂したのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「壇ノ浦合戦後の…</p><p>濱田 浩一郎(作家) *PRESIDENT Onlineからの転載 歌川国芳による源頼朝像「知勇六佳仙 右大将源頼朝卿」 CC-PD-Mark/Wikimedia Commons 源頼朝はなぜ弟・義経と決裂したのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「壇ノ浦合戦後の度重なる失態が原因だろう。頼朝は『弟は災いの種となる』と考えたのではないか」という――。 頼朝が壇ノ浦の戦いで求めていたこと 源義経は、壇ノ浦合戦において平家を滅亡させました。義経は平家討伐の功労者といっても良いでしょう。しかし、彼は最終的には異母兄・源頼朝に疎まれ、死の淵に追い込まれることになります。それはなぜなのでしょうか? 1185年3月24日(旧暦)、義経軍は長門国赤間関の壇ノ浦において、平家を滅亡させます。平家によって京都から連行された安徳天皇はこの時、入水し、海中に没するのです。同じく京都から持ち去られていた三種の神器の一つである宝剣も水中に沈んでしまいます。 頼朝は西国に派遣していた異母弟の源範頼(のりより)に対し、「安徳帝と三種の神器を確保するため、よく考えて戦をしなければいけない」と書状で諭しています(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)。ところがそのもくろみを、達することはできませんでした。 義経の度重なる失態</p>