1978年7月30日、当時の沖縄県では本土復帰後も継続していたアメリカ方式の右側通行から、日本方式の左側通行へと一夜にして様変わりした通称『ナナサンマル』が実施された日である。周到な準備とともに大変な苦労が伴った、44年前のこの出来事を振り返りたい。
文・写真/有村拓真
【画像ギャラリー】沖縄で繰り広げられた44年前の大作戦!!『ナナサンマル』とはなんだったのか?(8枚)画像ギャラリー『ナナサンマル』は計画から2年遅れでやっと実施にこぎつけた
1972年5月15日、沖縄県は日本への本土復帰を果たした。本年、2022年は本土復帰50年の節目の年である。
第二次世界大戦後の1945年から27年間アメリカによる統治が行われ、琉球政府が誕生した。貨幣から行政ルール、あらゆるものがアメリカ方式となった。そのなかで交通方法もアメリカ方式の「右側通行」に変更されたのである。
1972年の本土復帰後、さまざまなものが日本方式に戻されたが、右側通行の交通方法だけはアメリカ方式のまま運用されていた。
日本は道路交通に関する条約(ジュネーブ交通条約)を遵守しているため、一国二制度の状態を解消すべく1976年に沖縄県の交通方法を変更する予定で動き出していたが、オイルショックの影響や沖縄海洋博覧会開催のため、予定していた年から2年後の1978年7月30日に『ナナサンマル』と呼ばれる交通方法の変更、つまり「左側通行」への転換が実行されたのである。この一大行事は戦後復帰の最後の処理と言われている。
『ナナサンマル』に向けて信号や標識を逆向きに事前設置してその時を待つ
『ナナサンマル』に向けて、まずは県民などへの認知度を向上させるため、歩道橋や路上に看板、旗などを設置、テレビ番組などでは頻繁に『ナナサンマル』についての啓発を行った。小学校などでも定期的に警察が交通安全教室を開いて児童たちへも教育を行った。
沖縄県内には当時、信号機500基、標識3万本が存在したが、それらの仕様変更や道路標示の変更、新たなガードレールの設置など、県内全域で日夜作業が行われた。作業は梅雨の時期に行われたため、ガスバーナーで道路標示を施設する作業では台風などの影響もあり、乾ききらず苦労したという。作業が完了した道路標示や標識は順次カバーなどで覆い、その時を静かに待った。
県内を走る路線バスも当然ながら左ハンドル車で乗降扉も右側の車両ばかりだった。これらすべてを右ハンドルへ改造するとともに、乗降扉位置を左側へ変更する改造をしなければならない。
しかし、県内を走る1295台ものバスすべてを一度に改造することは現実的ではないため、県内の各バス会社や経済界代表らが県知事や政府に陳情し、新車のバスの購入や、既存バスの改造費用を国庫による補助や全額負担で行うことができたのである。
『ナナサンマル』に合わせて1619台という大量発注された新車のバスは続々と沖縄県に運ばれ、米軍基地の跡地に留め置かれた。広大な基地の跡地を活用し、各バス会社の運転士らは連日右側通行に向けた完熟走行訓練を行い、その日に向けた準備を着実に進めていたのである。また、警察も運転免許試験場などで連日、パトカーや白バイの走行訓練を重ねた。
『ナナサンマル』以前の沖縄では、マイカーではアメ車などの左ハンドル車が主流だったが、なかでもトヨタや日産などの国産メーカーでも「沖縄仕様車」と呼ばれた左ハンドル仕様が製造され、スカイラインやクラウンなど多くの車種が沖縄へ“輸出”されていたのだ。フェアレディZなど、右ハンドル仕様には設定されていない高排気量を有したモデルも販売されていた。
『ナナサンマル』が迫るなか、マイカーも左ハンドル車のままだとヘッドライトの照射範囲を調整しなくてはならなかったが、対象車両が25万台に上ったため、ライトごと交換するまでの応急処置として、テープを貼って照射範囲を調整するなどしていた。
一方で『ナナサンマル』前後より右ハンドル車の販売も活発になり、特に中古車需要が急増し、本土から沖縄へ中古車が大量に送られたのであった。また、一部の路線バスなどは改造されないまま東南アジアへ輸出され、現地で活躍したという。
44年前、『ナナサンマル』直前から当日は厳戒態勢でその時を待った
いよいよ『ナナサンマル』直前となった1978年7月中旬には、交通規制などのため警視庁など一部の県警本部などの交通部隊の警察官約2600名、パトカー80台、白バイ100台が現地へ派遣され、県内の各警察署に配置された。
そして7月29日午後10時、特定の車両以外の通行が規制された県内の道路では、標識などの切り替え作業が一斉に開始された。作業状況は逐一県の対策本部へ連絡され、完了した場所が地図上で記されていった。明けて7月30日午前5時50分、右側を通行していた車両はサイレンの吹鳴を合図に路肩へ停車。そして警察官の指示で左側車線へと入り待機する。
そして午前6時、再びサイレンが吹鳴するなか、いよいよ左側通行を開始したのであった。沖縄県の交通方法が変更された瞬間である。この一大行事を一目見ようと県内各地から見物人が多く集まったという。
27年間という長年の習慣が一夜にして変わったため、いくら事前に認知していたとはいえ、ハンドルを握ると戸惑うドライバーが多く、事故も頻発したというが、重大事故に発展することなく徐々に沖縄の人々は新しい日常を送っていったという。
そしてこの一大行事の歴史の証人である、この時新車導入されたバスが、44年を経た今なお県内の2社でまだ生き残っており、毎週末などの限られた時間に定期運行されているのである。沖縄バスには1978年製の三菱ふそうMP117Kが、東陽バスには日野車体のRE101がそれぞれ動態保存されている。また、毎年7月30日には一日を通して運行されている。2022年の当日のレポートも追ってお届けしたい。
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