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8月14日(日)、戦後77年目の終戦の日を前に『僕たちは戦争を知らない〜1945年を生きた子どもたち~』が放送される。

平和への思いを強く抱き、自らが演出するステージで度々、戦争の悲惨さを描いてきた故・ジャニー喜多川さん。その信念を受け継ぐジャニーズ事務所に所属する4人が、子ども時代に戦争を体験した5人の証言者の声を聞くため、全国各地を訪ねる。

戦争を体験した人々の声を直接聞いて伝えていくのは、菊池風磨(Sexy Zone)、中間淳太(ジャニーズWEST)、松村北斗(SixTONES)、阿部亮平(Snow Man)。

実は、ジャニー喜多川さん自身も戦争を体験。“二度と悲惨な出来事を起こしてはならない”という信念を持ち、自らが演出するステージで戦争の場面を多く表現してきた。ジャニーさんのもとで学んだ若きアイドルたちはみな、そうした舞台を経験。そんな彼らが今回、子ども時代に戦争を体験した人々から話を聞くための旅に出る。

戦後77年、戦争体験者が少なくなり、戦禍の記憶が薄れてきた今だからこそ聞いておかなければならない“思い”や“記憶”。戦争がいかに悲惨なものか、いかに人の命や心を簡単に奪い去るものか、その実像は教科書を見るだけでは知ることはできない。

番組では、戦禍の中を生きた市井の人々の声に耳を傾け、ありのままを伝えることで、悲惨な戦争の不毛さと、それでもなお強く生きた日本人の姿を伝えていく。

◆14歳で志願し、戦場に立った少年兵

菊池風磨は、都内に住む鈴木忠典さん(現在93歳)を訪ねる。

忠典さんは海軍の活躍を伝える映画に憧れ、14歳で“海軍特別年少兵”に志願。主に激戦地・ソロモン諸島付近で、魚雷艇という20メートルにも満たない小型船で敵の軍艦に近づき魚雷を放つ、極めて危険な任務に就いた。

戦場では、相手を攻撃することしか考えられなくなり、同船する仲間が負傷しても、優しい言葉をかけられなかったと述懐。菊池は「人の心を亡くしてしまう戦争の悲惨さが、鈴木忠典さんのお話からひしひしと伝わってきました」と語る。

「戦争とはいったい何だったんだ」という忠典さんの言葉に、菊池が感じたこととは。

◆戦争孤児となった7歳と4歳の姉弟

菊池はもうひとり、埼玉県に住む鈴木賀子(よりこ)さん(現在84歳)からも戦争体験をうかがう。

1945年3月10日の東京大空襲。7歳だった賀子さんは母を亡くし、4歳の弟とともに生き延びた。

頼った親戚からたらい回しにされた2人が辿り着いたのが、上野駅の地下道。食べ物もなく、誰も助けてくれない状況の中、幼い2人はどのように過酷な地下道を生き抜いたのか。話を聞いた菊池は「賀子さんの、弟への深い愛情に胸を打たれた」という。

◆壮絶な地上戦・沖縄戦。女子学徒隊

中間淳太が訪ねるのは、国内唯一の地上戦の地となった沖縄。

当時16歳の女学生だった武村豊(とよ)さん(現在93歳)は、故郷を守りたいという思いから学徒隊として従軍看護助手となった。当時、沖縄各地では“壕”とよばれる洞窟を野戦病院として使っていたが、豊さんたちはそこで負傷して担ぎ込まれる人たちの世話をしたという。

明かりもない狭い空間に折り重なるように運ばれてくる負傷兵たち。まだ16歳の少女にとって、手足がもがれたような負傷兵のケアは簡単なものではなかった。母と姉、女学校の仲間たちが犠牲となる中、生き残った豊さんは今も心の中で詫び続けていると打ち明ける。

豊さんに会いに行った中間は、慰霊碑に手を合わせるとともに野戦病院の跡地も訪問。今回のロケを「今後の人生において重要な時間となりました」と語る。そして、人々が遭遇した壮絶な状況を想像し、思わず涙が頬を伝う。

◆長崎・原爆投下後に再開した小学校の物語

松村北斗は長崎へ。自らが通っていた小学校にある祈念館で、原爆の語り部を勤めている池田松義さん(84歳)のもとを訪ねる。

当時7歳だった池田さん。爆心地から700メートルほどの地点で被爆したが、奇跡的に助かった。しかし全身血だらけで戻ってきた父は死亡。母も2週間後に突然、亡くなった。母親を火葬するとき、池田さんは泣くことができなかったという。「家族全員を失って、これからどう生きていくのか…」と、悲しみよりも不安でいっぱいだったからだ。

そんなとき、安らぎの場となったのが再開した学校だった。学校は爆心地からわずか500メートルほど。焼け野原となった街で残った、数少ない建物のひとつだった。原爆で約1500人の生徒のうち1400人あまりが亡くなったが、生き残った教師たちがわずか1カ月半ほどで授業を再開。そこに池田さんをはじめ、生き残った生徒たちが集まった。

家族を亡くした池田さんは、「先生や友だちと会うことが何よりも安らぎだった」と当時を振り返る。そんな対話を経て松村は「取材中に言葉にし切れなかった瞬間、その感情がすごくリアルで大切」と、実際に戦禍を体験した人々の声を届けることの大切さを実感する。

◆ジャニー喜多川さんが疎開した和歌山の大空襲

阿部亮平は、ジャニー喜多川さんも疎開していた和歌山へ。9歳で空襲の恐ろしさを体験した田中誠三さん(現在86歳)を訪ねる。

1945年6月22日、空襲で自宅に爆弾が直撃。防空壕に逃げ込んだものの、母と2人の姉たちの命は奪われてしまった。その後、7月9日の和歌山大空襲では、市街地一帯を円で囲むように焼夷弾が落下。避難場所となっていた旧県庁跡地の空き地では凄まじい火災旋風が起き、逃げ場を失った700人以上の人が折り重なるように焼死した。

実は、その2年ほど前から、米軍はどうすれば効率よく被害を与えられるか、投下実験を繰り返していたという。

ジャニーさんが自身の戦争体験を投影して作り上げた舞台『少年たち』シリーズにも出演したことがある阿部。「どこか田中さんにジャニーさんを重ねてお話を聞いていたところもあったかもしれません」と語るが、そんな田中さんの壮絶な体験談に言葉を失う。