モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、全日本GT選手権を戦った『ニッサン・シルビア(S14型)』です。
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本連載では現代でも絶大な人気を誇り、D1グランプリなどドリフト競技で未だ一線級のマシンとして重宝されているニッサン・シルビアのS13型や、全日本GT選手権(JGTC)で活躍したシルビアS15型の姿を紹介したことがあった。今回は、その超人気車種の“あいだ”に存在したニッサン・シルビア(S14型)を取り上げよう。
ニスモはJGTCにおいて、1994年シリーズのスタート当初より最高峰であるGT1クラス(後のGT500クラス)に力を入れていた。1996年にはプライベーター向けに販売できる車両の開発と将来のトップドライバーを育成するという目的から、GT300クラスへ参入することを決めた。そのとき、GT300クラス向けの車両を開発するうえでベースに選ばれたのがニッサン・シルビア(S14型)、通称“S14シルビア”だった。
GT300クラス仕様のS14シルビアは、ニッサン車を使うプライベーターたちに販売することを考慮し、コストを抑えるため数多くのパーツが他のレーシングカーからの流用で製作されていた。
エンジンは、1994年の全日本ツーリングカー選手権(JTCC)でプリメーラが積んでいたNAのSR20DEを使用したほか、ラジエーターはR32GT-R用、トランスミッションもヒューランド製6速Hパターンを他の車両から流用した。足まわりは、フロントがJTCCのサニーとR32GT-R、S14シルビア純正のパーツが組み合わされ、リヤもR32GT-RとS14シルビアの純正パーツを使って構成されていた。
このようにユーザーへの展開を視野に入れて作られたGT300クラス仕様のS14シルビアは、まずホシノレーシングへと提供され、パーソンズシルビアとして1996年の第3戦仙台ハイランド戦でデビューを果たした。
このパーソンズシルビアのステアリングを握ったのは、この時、若手ドライバーだった本山哲と井出有治。後にトップドライバーとしてニスモやチームインパルなどのGT500クラスのマシンをドライブすることになるふたりである。
そんなふたりがドライブしたパーソンズシルビアは、デビュー戦ながらクラスポールポジションを獲得。決勝ではトラブルが発生し、リタイアを喫したが、ポテンシャルの高さを感じさせる速さを見せた。しかしその後もポールを獲得することはあれど、その速さを結果に結びつけることはできなかった。そして、初年度のシーズンを終えた。
翌1997年になると搭載するエンジンがSR20DE“T”、つまりターボとなり、S14シルビアを使うユーザーも拡大していく。そのユーザーのなかに現・GTアソシエイション代表の坂東正明氏が率いていた時代のレーシングプロジェクトバンドウ(RPバンドウ)がいた。
RPバンドウといえば本来トヨタ車を使ってレース活動を行っていたチームだったのだが、この年に初めてJGTCへと参入するにあたって、ベース車はFR車でという思いもあったが、GT300クラスに最適なFR車がトヨタにはなく、さらにコストパフォーマンスのいいS14シルビアが選択されたようだ。
チューニングパーツメーカーであるRS☆Rのカラーを纏い、RS☆Rシルビア(チーム名はRS-Rレーシングチーム with BANDOHだった)としてエントリーしたRPバンドウのS14シルビアは当時、JGTCへのフル参戦が初めてだった(スポットでの参戦経験はあり)若手の織戸学と経験豊富な福山英朗というコンビがドライブ。
初陣となる1997年の開幕戦、鈴鹿ラウンドでは事前のテストでトラブルを抱えながらもそれを克服しデビューウインを果たした。その後、第2戦からも2位、2位、3位、優勝と毎戦表彰台に登壇。最終戦こそ5位に終わったが、見事にGT300クラスのシリーズチャンピオンを獲得したのだった。
1998年になると、ついにニスモがチームとしてGT300クラスへS14シルビアを使って参戦。しかし前年ほどの成績を残すことはできなかった。そして翌年から主力の座をS15型へ譲ることになるのだった。