あの日、庄司さんは空襲警報の鳴り響く中、母に連れられ西公園(青葉区)の地下に掘られた防空壕(ごう)に妹3人と共に逃げ込んだ。「ゴゴゴゴ」「ドドドド」。断続的に焼夷(しょうい)弾が落ちる音が頭上に響いた。
夜が明けて壕の外に出ると、入り口のすぐ前に黒焦げになった幼女の遺体があった。崖下を流れる広瀬川には、壕に入ろうとひしめき合う中で転落した多くの市民の遺体が浮いていた。
対岸で木片を組み、遺体を焼く大人たちが見えた。「壕に入るのが一瞬でも遅かったら命はなかった」と思っている。
市中心部は焼け野原と化した。肴町(現在の青葉区大町周辺)の自宅は焼失し、そこから仙台駅が見通せた。「初めて『これが戦争か』と実感した」。仕方なく母子5人でそのまま壕に住むことにした。
水は近くの公園の水道から1日2回、バケツでくんだ。冬は暖を取る七輪に河原で拾い集めた流木をくべた。寝具は綿の飛び出した布団と毛布が1枚ずつ。家族5人が文字通り、身を寄せ合って寒さをしのいだ。
食事は1日に1、2回。母親がどこかで調達したパンや根菜類、河原で摘んだ野草のおひたしが中心で、肉や魚は食べた記憶がほぼない。常に空腹だった。
市電の運転士だった父は公務中のけががもとで、空襲の前年に他界。庄司さんは家計を助けようと、終戦の年の秋から新聞販売店に毎朝通い、焼失を免れた地区で朝刊を配り歩いた。厳冬期でも素足にげた履きの姿を見かねた住民が、ズック靴をくれた。
壕での生活は、母が1947年初頭に市内の新制中学校で住み込み用務員の職を得るまで続いた。小屋のような用務員向け宿舎は6畳一間。それでも「やっと横穴生活を脱した」と開放感に浸った。
時は過ぎ今年2月、ロシアがウクライナに攻め入った。砲弾の雨を逃れ、地下シェルターや工場などに身を潜める市民の様子を報道で見て、かつての自分たちを重ね合わせた。「あの時と同じか、それ以上の過酷な状況だ」と肌で感じる。
空襲体験を伝える出前授業を2年前から青葉区内の小学校で続ける。「できる範囲で平和の大切さを語り継ぎたい」と心に誓う。
空襲の日と投票日が重なった参院選は、安全保障や憲法改正も争点だ。「『日本が攻撃されたら』が出発点の議論より、外交などでいかに戦争を避けるかを考えることが大事だ」。多くの人に、そう考えてほしいと願う。
河北新報 2022年7月3日 6:00
https://kahoku.news/articles/20220703khn000003.html
引用元: ・仙台空襲77年(7/10) ウクライナの戦禍「あの頃と同じ」 壕生活体験した庄司さん [蚤の市★]
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