【編集部より】安倍晋三元首相の生前の政治スタイルには毀誉褒貶が続きましたが、批判された言動の中にはにわかに信じがたい報道や論評もありました。暗殺事件から1か月。安倍氏に何度も取材をしてきたライターの梶原麻衣子さんが、確かなエビデンスに基づき、安倍氏に対する「巷の批判」を多角的な視点から検証します。
最終回は、「安倍政治が分断を生んだ」と頻繁に言われた言説について、あえて真っ向から異論を唱えます。(3回シリーズの3回目)
「連帯感」と「レッテル」
「安倍政治が分断を生んだ」
このフレーズも、もはや常套句になった感がある。
2022年8月3日には、毎日新聞がまさに〈安倍政治の功罪 分断と対立を生んだ唯我独尊〉と題する辻元清美参院議員のインタビューを掲載している。
確かにSNSを覗けば、反安倍・親安倍の両陣営が、安倍元総理の死後も各々の主張を声高に叫んでいる。むしろ、「統一教会と自民党の関係を取り上げろ」「国葬反対派は国際常識がない」など、その死を巡って「分断」は深まっているかに見える。
実際、仲間内の結束は強まり、異論を唱えるものは排除されかねない空気があった。
左派を自認するメディア関係者はこう述べる。
「もちろん安倍政権に問題はあったと思っているが、部分的にでも安倍を擁護した、と受け取られようものなら、仲間から何を言われるかわからない。全否定するのが大前提であり当然、という空気があった」
そうした圧力も働いて、安心して「いやあ、それにしても安倍はひどいですな」と話題に出せる存在だったのだ。しかも相手は強い。「巨悪と戦っている」という連帯感を強く感じられたのではないか。
これは逆もまた然りで、右派的な集まりの中では「やっぱり安倍さんだ」「安倍叩きの朝日新聞は本当にひどい」が共通語になる。安倍政権の側に立ち、中国やメディアという巨大な敵と戦っているという認識だ。だからこそ「安倍さんにも問題はあるのでは」と言い出すような人物には、左翼だスパイだとレッテルが貼られる状況があった。
実際、筆者は2018年まで保守雑誌の編集部にいたため仕事の関係者には保守派が多かったが、「尖閣諸島への公務員常駐や、竹島式典の政府主催という公約、憲法改正はどうなったんだ、なぜそれを問わないんだ」「北方領土が二島返還に後退してるぞ」とあまりに批判的なことばかり言い過ぎたことで、一部から「左翼になったのか」とまで言われる事態に至った経験がある。
安倍批判でなぜ左派と右派が組むのか
こうなると「やはり分断は深まったのではないか」と思われるだろうが、あえて異論を唱えたい。実は「安倍晋三」は、分断を深めるどころか、日本の有権者の鉄板の共通話題になっていたのではないかという点だ。
よく考えてみれば事件前も、安倍元総理が退任してまもなく2年も経とうかというのに、右も左も安倍さんの話ばかりしていた。
実際に「安倍批判」によって右派と左派が手を組むという場面も見られるようになっていた。2015年には、左派代表の福島瑞穂議員と、右派代表の鈴木邦夫氏が「安倍政権批判」で手を組み、共著を出している。本来交わることのなかった者同士が、「安倍晋三」を媒介として対話の機会を持つ。安倍支持者からすれば面白くはないだろうが、ここでは分断どころか融和が生まれているのだ。
なぜこういうことが起きるのか。一つには、安倍元総理の「二面性」が影響している。
米外交評議会が発行する『フォーリン・アフェアーズ』(2022年8月号)掲載の、米ダートマス大学准教授の〈安倍ビジョンと日本の安全保障――ナショナリズムと安全保障の間〉という記事では、安倍元総理がナショナリスト的な側面を持ちながら、安全保障に現実的に対処する場合、ナショナリズムが邪魔になればそれを引っ込めた、と解説されている。
具体的には、「慰安婦問題でも、安倍元総理は慰安婦に対する日本政府の責任を認めない立場だったが、戦時中の蛮行を取り繕いながら安全保障戦略を拡大するのはあまりにも有害な組み合わせだった。そのため、安倍は外交目標を優先させ、方向転換を試み、靖国参拝を止め、河野談話の見直しを断念し、公式謝罪を表明した」とし、その象徴が「戦後70年談話」だったとする。
これが、右派の中でも最右翼からは不信を持たれる部分でもあった。「安倍は真の保守ではない」と批判するところで「反安倍」陣営と手を組める人も出てきたのだろう。一方、日本の左派は「現実的な安全保障政策」についても否定するのでほめる部分を見出せなかったのかもしれないが、「安倍が歴史認識問題で、(内心はともかく)政治的にはナショナリズムを引っ込めた」ことは評価すべきだったろう。
「二人の安倍晋三がいる」
こうした、リアリストであると同時に縦横に見せる顔を変えられる点について、フォーリン・アフェアーズは早くも2013年に指摘すると同時に、安倍元総理本人に尋ねてもいる(記事はこちら)。聞き手は同誌の副編集長(当時)だ。
――二人の安倍晋三がいるように思えるときがある。教科書検定基準の見直しを支持し、従軍慰安婦問題の従来の立場や東京裁判の正統性に疑問を表明するナショナリスト、あるいは保守派の安倍晋三。一方で、中国や韓国に手を差し伸べ、尖閣諸島問題をエスカレートさせないように配慮する現実的・実践的な安倍晋三がいる。どちらが、本当の安倍晋三なのか
これに安倍元総理がどう答えたのか、詳しくは全文をお読みいただきたいが、かなりバランスを考慮した受け答えをしている。この回答を「リアリスト」ととるか「日和った」ととるか、「国粋主義的本心を隠しているだけだ」ととるかは、まさに見る者のスタンス次第だ。
右も左も安倍晋三を語りたくなる
もう一つ、「安倍晋三という人物が、右にとっても左にとって何か言わずにはいられない存在」であったから共通の話題になり得た、という理由もある。評価は全く逆ではあるが、「安倍」を介して議論の応酬をしていたことは確かだ。
そもそも、人々の興味や情報源が限りなく細分化された現代において、「同じ話題」で話をすること自体、難しくなってきている。生活に直結する政治の話であってもだ。
先の参院選で当選した「ガーシー」こと東谷義和氏などは、参院選出馬時点では「全く何も知らない」という人も少なくなかった。あるいは参政党についても同様で、メディア関係者でも少し年齢が上の人からは、「あれは一体、何なんですか」とこちらが尋ねられる状況にあった。分断どころか、それぞれが砂粒状態でどこに裂け目があるのかもわからないのが現状だ。
そういう時代にあって、既存の媒体でもネット上でも、話題の尽きない安倍晋三という存在は、賛否はあれども「共通の継続的な話題」ではあったのである。祖父の時代からの話題も豊富で、評価も面白いほど割れる。岸田総理も3世にわたる世襲議員だが、祖父や父の話はほとんど出てこない。賛否はあっても、熱烈なファンもアンチもいない。岸田総理では、対立以前に議論が盛り上がらないのだ。
相手と冷静に語り合って見えること
確かにSNSの弊害はある。クリス・ベイル『ソーシャルメディア・プリズム』(みすず書房)に詳しいが、「自分と異なる極端な意見に接すると、それを否定しようと思って自分の言葉も過激になったり、『ここまでひどいとは』と相手に対する憎悪を募らせるようになる」ことが、社会実験を通じて明らかにされている(参考:Hanadaプラス)。
どうすればいいのか。本書に倣えば、「安倍晋三」という共通の話題について、「何がよくて、何がダメだったのか」をそれぞれの立場から、相手の意見を頭から否定しない形で静かに、冷静に語り合うことだろう。
先の左派的なメディア関係者もこう述べる。
「安倍を否定するしかない左派同士の会話もきついが、右派と話して少しでも安倍を批判したら食って掛かられるかと思うと、とても話す気にならない」
逆説的だが、「頭ごなしに批判されないのなら、自分の意見を話し、別の意見も聞いてみたい」のが本音ともいえる。
もちろん、対話を拒絶されたり、頭から批判されるなどうまくいかない場合の方が圧倒的に多いだろう。筆者もいくつかの成功体験があるものの、手痛い失敗も経験している。
だが、それでも。共通の話題としての機能が薄まらないうちに、「安倍晋三という政治家の評価の異なる相手」との対話を重ねたい。