モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、グループA時代の全日本ツーリングカー選手権(JTC)を戦った『トヨタ・カローラレビン(AE92)』です。
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ホンダ・シビック VS トヨタ・カローラレビン。これはグループA規定時代の全日本ツーリングカー選手権(JTC)の最小排気量クラスにおいて、グループA時代の終焉まで激しく繰り広げられた対決だった。その盛り上がりは毎戦、ニッサンのR32スカイラインGT-R同士が戦って人気を博していた最高峰クラスに勝るとも劣らないものであった。
ホンダ・シビックとトヨタ・カローラレビンの対決。シリーズがスタートした1985年から2年間は、トヨタがメーカータイトルを獲ったものの(トヨタ・カローラFX時代も含む)、1987年から1993年までは、ホンダが製造者部門を7年連続で制している。
このことからもわかるように、この2車による対決はホンダ・シビック勢が優勢だったと言えるだろう。そのシビックのなかでもEF3/EF9型がもっとも長く使用され、もっとも連覇に貢献したことは以前、本連載でも紹介した。
そんなEF型シビックと、ほぼ同じ期間に使用されてトヨタ勢の主力車としてEF型シビックに対峙したのが、今回紹介するAE92型のトヨタ・カローラレビンだ。
トヨタ・カローラシリーズのなかでもスポーティ色の強い車種としてラインナップされていたカローラレビン/スプリンタートレノ。そんな“レビトレ”がAE86型からAE92型にモデルチェンジしたのは、1987年5月のことだった。
このAE92型、先代AE86型では維持されたFRレイアウトの駆動方式がついに廃され、FF化されたのが最大のトピックだった。併せて、ボディ形状が2ドアクーペスタイルへと統一された。
1987年に市販車が登場したAE92型レビン(およびトレノ)は、1988年初頭にグループAの公認を取得。1988年の第2戦西日本ラウンドよりトムスから2台のAE92型レビンがエントリーし、レースデビューを果たした。
この第2戦西日本ラウンドを皮切りに、主力車がそれまでのカローラFXからAE92型レビンへと切り替わっていく。AE92型のなかでも、一部スプリンタートレノをベースにしたユーザーもいたが、基本的にリトラクタブルライト機構を持たないカローラレビンがベースとなったのは、先代のAE86型時代と変わらなかった。
AE92型レビンは1988年の第2戦西日本ラウンドよりデビューしたが、ホンダ・シビック勢の壁は厚く、当初は勝利に恵まれなかった。
しかし、1988年の最終戦インターTEC。富士スピードウェイを舞台にした“国際ツーリングカーマッチ”といえる1戦で、トムスの走らせるミノルタカローラレビンが無限のシビックを破り、総合5位、クラストップでフィニッシュ。最終戦にしてAE92型レビンの初勝利を飾った。
翌1989年、この年のシーズンも相変わらずシビック勢の優位に変わりはなかったのだが、職人・土屋春雄の率いたつちやエンジニアリング『ADVANカローラ』が第2戦西仙台と最終戦インターTECの2勝をマーク。それに加え勝利を逃したラウンドでも表彰台を二度登壇する安定感を見せ、見事ドライバー部門のタイトルを獲得した。製造者部門のタイトルこそ逃したものの、殊勲の活躍を見せたのだった。
1990年シーズンもつちやエンジニアリングの『ADVANカローラ』は、最終戦インターTECを含む3レースで優勝。ドライバー部門のタイトルを防衛することに成功した。
AE92型カローラレビンは、デビューから4シーズン目となる1991年も継続使用され、つちやエンジニアリングの『ADVANカローラ』が2勝、トムスの『富士通テンカローラ』が1勝をマークしていたが、最終戦インターTECで突如、トムスとつちやエンジニアリングは、AE101型へとスイッチすることになってしまう。
この年もつちやエンジニアリングにドライバー部門タイトル獲得のチャンスがあったものの、新たに投入されたAE101型は急造されたニューマシンということもあり、トラブルが発生し、3年連続のタイトルを逃してしまう結果となった。
AE92型カローラレビン/スプリンタートレノは、後年のAE86型人気の影響で市販車としては少々“マイナー車”感も否めない。しかしモータースポーツ、特にグループAにおいては常勝シビック勢に一矢報いた名車だったのである。