岸田文雄首相が近くトヨタ自動車の本社(愛知県豊田市)を訪問し、工場視察などをするという。現職総理がトヨタ本社を訪れることは極めて珍しい。1995年10月からトヨタを取材してきたが、少なくともそうしたことは筆者の記憶にはない。
トヨタが配慮する「分配」
最近のトヨタの動向を見ていると、以前にも増して権力との「距離」が縮まっているように見受けられる。
今春闘では岸田政権は3%の賃上げを求めた。日本経団連が5月20日に発表した22年春闘妥結状況によると、月例賃金の引き上げ率は2.27%。4年ぶりに前年(1.82%)を上回り、業績がコロナ禍以前の水準に回復した企業に限ると約3%の賃上げを行った。
政権の目標に近づいた形だが、これに貢献したのがトヨタの春闘だ。2月23日に行われた第1回目の労使交渉では異例となる、労組の要求に対して満額回答する意向を豊田章男社長が示した。その翌日に豊田氏は官邸に出向いて、岸田首相に春闘の状況を報告した。
今でも春闘交渉における賃上げの相場形成に大きな影響力を持つトヨタの満額回答によって大手他社は雪崩を打ったかのように満額回答のラッシュが続いた。トヨタの満額回答が、4年ぶりの賃上げ率上昇に大きく貢献したことは間違いなく、岸田政権が掲げる「成長と分配」政策の分配面に寄与したと言えるだろう。
さらに分配への配慮は、トヨタとトヨタグループの決算でも見て取れる。トヨタの22年3月期決算での営業利益は過去最高となる2兆9956億円だったが、一転して23年3月期の営業利益は2兆4000億円の見通しで減益となる。
これに対し、部品メーカーなどトヨタグループ7社は22年2月頃までは半導体不足によるトヨタの生産台数の落ち込みの影響を受けて業績を下方修正していたが、トヨタとは逆に23年3月期は7社中、デンソーや豊田自動織機など6社が過去最高益となる見通しだ。
岸田首相による「返礼」?
この主な理由が、これまでトヨタは、部品に使う原材料の市況価格の値上げを納入価格に反映させることを認めず、下請けを叩いてきたが、この方針を一転させて大幅値上げを受け入れたためだ。この結果、トヨタは減益となり、グループ会社は増益となった。
トヨタが仕入れる部品や原材料の値上げなどによるコストアップ要因は23年3月期で1兆4500億円。前期の6400億円から約2.3倍に膨らんだのはこうした事情があるからだ。
もっともトヨタの減益は、独り勝ちや下請けいじめといった批判をかわす「演出」の一面もある。たとえば、23年3月期の為替レートを1ドル=115円に置いている。1ドル=134円という実勢レートから大きくかけ離れている点もミソだ。
トヨタではドルに対して1円の円安で約450億円も営業利益が増える。逆に1円の円高で450億円減益となる。このため、1ドル=115円にして15円程度の円高設定にしていると、6800億円くらい営業利益が減ることになる。
もし、トヨタが1ドル=130円の設定にしていれば、23年3月期も増益か、横ばいで減益にはならなかった。こんなことまでして、減益予想を開示するのは、下請けに「配分」して減益になっていることをアピールするためなのだ。これは、岸田政権への重要政策への配慮ともいえるだろう。岸田首相がトヨタを訪問するのは、こうした対応への「返礼」なのかもしれない。
愛知では「トヨタ県」化に布石
政権の重要政策への貢献だけではなく、選挙でもトヨタは「権力」に近づいている。そうした動きが露骨になったのが昨年行われた総選挙だった。豊田市を中心とする愛知11区でそれまで6回連続小選挙区で当選し、圧倒的な強さを誇ったトヨタ労組出身の古本伸一郎氏が解散当日に突如、不出馬を表明。この結果、3回連続比例復活の自民党の八木哲也氏に小選挙区の議席を譲る形になった。
トヨタ労組は50年以上、推薦候補を国会に送り込んできたが、今後は小選挙区には推薦候補を擁立しない方針を示した。この背景には、与野党対決では産業政策などの面で国難を乗り越えるための解はないと考える豊田氏の意向が強く働いていると言われる。
別の言い方をすれば、今後、脱炭素化支援などの補助金が拡大する中、100年ぶりに変革の波が襲い掛かっている自動車業界にとっては与党に恩を売っておく方が得策なのだ。トヨタの動きは、連合の動きにも影響を与えるだろう。36万人近い組合員を抱える連合傘下の中核組織、全トヨタ労働組合連合会も野党から離れ、自民党に近づいている。
その古本氏は衆議院議員を辞めた後、今年4月には愛知県副知事に就任。同県政界では「古本氏がいずれ大村秀章知事の後継となるのではないか」と見る向きもある。お膝元の行政のトップが古本氏になれば、トヨタは「トヨタ県」化への政策誘導を狙うだろう。