戦争はワインと似ている。常に真実を教えてくれるからだ。
こんな印象的な言葉を残したのはルドルフ・チェレーン(1864-1922年)である。彼は北欧のスウェーデンの学者で、後に保守的な政治家にもなった人物だが、近代に入って「地政学」という言葉を最初につくったことでも知られる。
冒頭の言葉の真意は、「戦争が発生すると、それはワインを飲んで酔っ払った人のように、それまで覆い隠していた国家や組織の様々な問題をさらけ出すことになる」というものだ。
今回のロシア・ウクライナ戦争はすでに本稿執筆時にすでに5か月目に入っているが、この戦争も、チェレーンの指摘のごとく一つの興味深い「真実」をさらけ出している。
その「真実」とは「古いテクノロジーの信頼性の高さ」である。
「骨董品」が戦場で大活躍
5月頃のことだが、いくつかの動画サイトに、今回の戦争における戦場の様子を撮影した動画の中に、実に奇妙な光景を写したものがあった。それはM1910という機関銃をウクライナ兵が撃っているものだった。
このマシンガンは「マキシム機関銃」として知られているが、動画に映っているのはロシア帝国軍にライセンス生産されたタイプで、どうやら1940年代以降に製造されたものらしい。
最初にオリジナルのマキシム機関銃がアメリカ出身のイギリス人発明家のハイラム・マキシム氏によって販売されたのは1884年、つまり明治17年(!)なので、完全に「骨董品」だ。だが、なんとこれがいまでもウクライナの戦場で活躍していると報じられている。
マキシム機関銃は、その優れた機構から世界初の「自動式」の機関銃となった(それ以前の機関銃はクランクを手回しするガトリング式)。第一世界大戦では中盤から本格的に使用され、塹壕戦などで突入してくる敵兵に対して圧倒的な力を発揮している。
重いからこそ安定した射撃が可能に
この機関銃の最大の利点は水冷式であることだ。
現代の機関銃は、連続して発射される弾が銃身を通過する時の摩擦で加熱してしまい、銃身が熱ダレして曲がったり、さらには薬室内で自然発火する、いわゆる「クックオフ」という現象が起こって暴発する危険なものだ。
ところがマキシム機関銃は銃身を丸いタンクで包み、そこに水を入れておき、機種によって外付けのタンクとつないで循環させる「水冷」方式で銃身の加熱を防ぐ仕組みとなっている。このおかげで連続射撃が可能であり、しかも現代でも使われている7.62mmの弾薬にも互換性があるためにそのまま使用できる。
最大の欠点は、全重量が68キロと重いために取り回しが悪い点だ。現代の機関銃は軽量化が進んでおり、兵士が1人で持ち運べるように10キロ以下のものが多く、熱ダレ対策も銃身そのものを交換して対処している。
だが機動性が求められない防御陣地で備え付けの機関銃として敵兵を迎え撃つにはマキシム機関銃が最適であるため、現地では実に重宝されており、重量もあるために安定した射撃ができるという。
ものによってはレーザー照準器を付け加えられて「現代化」されたものもある。
英エコノミスト誌の記事などによると、ウクライナ政府はこの機関銃を3万5千丁も保管していたが、今回の戦争の発生をうけて「現役復帰」させたようだ(参考:ウクライナの軍隊が100年前の機関銃を使っている理由)。
古いテクノロジーは消滅しない
一般化してしまうのはリスクがあるが、個人的には今回のマキシム機関銃の復活に関して2つの教訓があると考えている。
1つは、古いテクノロジーはなかなか消滅しないという事実だ。
たとえば人間が古代から使い続けている原始的なテクノロジーである「火打ち石」という道具があるが、これなどは某物販サイトで検索するとまだ新製品(キャンプ用か仏具)が販売されている。単純で古いからこそ、廃れることはなく、希少なものとなって生き残るケースが大半だ。
なぜ生き残るのかといえば、一度普及したものは、その単純で特化した機能(火花を発生させる)に使いやすさと高い信頼性があるからだ。
先日、携帯大手のauが大規模通信障害に陥って日本中が混乱したが、メディアでは公衆電話や固定電話の存在が再び注目を集めた。社会インフラにおいても、いざというとき頼りになるのは最新テクノロジーではなく、古くて信頼性のあるものだ。
実現した戦争学の泰斗の「予言」
もう1つは、戦争には驚くべき継続性があるということだ。もちろん今回の戦争においても革新的な面はある。トルコのバイラクタル2というドローンの活躍も目立っていたし、目立たなかったがロシアも大規模なサイバー攻撃を行っていたことも判明している(参考:NHK「見えてきたサイバー戦 ハイブリッド戦 ウクライナで激しい攻防」)。
だが実際のところ、フタを開けてみたら両軍は領土の占領・獲得を繰り返し、古典的な砲撃や残忍な市民の虐殺を伴う、20世紀前半に行われたような戦いが出現している。
拙訳『戦争の未来』の著者で戦争学の世界的な泰斗であるローレンス・フリードマンは、その結論として「次に起こるであろう戦争は、その華やかで未来的な展望とは裏腹に、実際は実に地味な第二次世界大戦と変わらないようなドロドロとしたものになる」という一つの可能性を挙げていた。
今回の戦争を見るにつけ、彼のシナリオは実に正確に状況を言い当てた、と言えよう。
「血生臭い肉弾地上戦」を想定せよ
誤解をおそれずにいえば、やはり戦争は戦争であり、その様相や状況は劇的に変化したように見えても、死や破壊、それに一進一退の攻防による政治的な意思のせめぎあい展開される様子はほとんど変わっていない。
そしてそれが変わらない理由は、戦争そのものを行う人間(の中身)が、古代からほとんど変わっていないからだ、と言える。
もちろん日本とウクライナは状況が違いすぎるので、今回の教訓をそのまま日本に当てはめるのは危険でさえある。だがいざ戦争が起こったら、日本とてこのような古典的で血なまぐさい事態に直面する可能性があることを、政府や国民は想定しておかなければならないのかもしれない。