「ちょっと待ちなさい。村山クン。他人を素人呼ばわりしているキミだって只の岩石屋じゃない。ド素人ぶりは経済部の記者さんと大して変わらないでしょ」
えらいところで先輩女子さんが登場です。
取材チーム構成員の「偏り」
(私)「確かに、原子力工学専攻の先輩と比べれば、ただの素人なのかも知れませんが、岩石鉱物学にはX線がつきものでして、放射線取扱主任の免許をとるために、ひととおりの勉強はしました。先輩が被爆リスクのある身であると存じてからは、お会いするときは子供ができないように気をつけていました」
(先輩)「無礼者。手打ちにいたすぞ。何を気持ち悪いこと言っているの。だいたい、村山クンと関わるときには、遠距離・遮蔽・短時間が、学生・院生・教職員を問わず原子力工学科女子の三原則(後に全学で採用)だったわよ」
(私)「かわいい後輩を放射能扱いしないでください」
(先輩)「放射能……だから村山クンは素人だっていうのよ。いいこと、放射能はモノじゃない。モノが放射線を出す能力のことだから、プロならこう言うわ。『村山クンは放射能も才能もない。ただの無能』、よく免許をもらえたわね」
(私)「学内ででも講習を受ければ、誰でもとれますから」
理科系学部の出身者で放射線関係の資格と経験を持つ人は結構います。原子炉の運転なんかと比べたら、私のなんかは原付免許みたいなものですが、このレベルの資格を持つ記者なら、朝日新聞社にもいたのではないでしょうか。その道の経験者が取材チームにいれば、少なくとも「退避」と「待機」の読み違いの指摘はでき、妄想の暴走で会社の屋台骨まで傾けてしまう過酷事故は防げたと思います。
放射線に対する「皮膚感覚」のなさ
放射線取扱主任の講習で叩き込まれることのひとつに、自分が受けた放射線量を把握しろ、というのがあります。病院のレントゲン技師などが、白衣の胸に小さな四角い線量バッジをつけているのを見たことがある人もあると思います。あの中には、放射線(含むx線)で感光する専用フィルムが仕込んであり、一定時間ごとに現像してみることで、その間に着用者が受けたおおまかな放射線量がわかるのです。
厚労省(当時は厚生省かな)の規定で、月に一定以上被爆すると翌月は実験室に入れなくなるので、検査の時はみんな緊張していました。私の場合、あまりに新品同様のフィルムが出てきて「村山、ちょっとは実験しろよ」と嫌みを言われる始末でしたが、こんな経験をしていると、放射線のあるところでは累積被爆を意識する感覚が身についてきます。
この皮膚感覚で吉田調書を読むと「「線量が落ち着いているところで一回退避してくれというつもりで、言ったんです〈吉田調書(2011.8.8-9、1-4p57以下〔57〕」というのは、とりあえず仕事のない所員が受ける被曝量を減らそうという意図だと明白にわかります。
これには「自らは現場に留まりながら所員の将来を守る」という美しい話ばかりではなく、今後大量の放射線を浴びながら作業せざるを得ないだろう部下たちの累積線量を増やさずにおきたいという、指揮官としての冷酷な判断もあったのでしょう。いかに非常時とはいえ、一定以上の放射線を累積で浴びた人間は現場に出るのは規則違反となりますから。
この際、そんな規則は無視してしまうとしても、部下が急性放射線障害で肝心のときに動けなくなるのは避けたいはずです。少しでも被爆を避けたい状況で、鮫島記者が主張するような待機命令など吉田所長が出すわけがありません。少しでも放射線を扱った経験者なら、こんなことは直感レベルの話だと思います。
身も蓋もない事を言えば、初回に書いた「そもそも、大量の所員が2Fに逃げ込むことがあり得たのか」といった常識的な批判を少し駆使すれば、専門知識などなくても誤報の可能性に気づくはずだったとも思います。けれども、前のめりの心理状態で常識が駆動しなくなったときに冷静さを呼びもどしてくれるのは、若いときに鍛えた直感と専門知識というのもよくある話です。
一方、新聞記者の感覚で「まず現場を動くな」というのも分かります。退避中に状況が変わって対応できなくなる特オチ的状況を警戒する感覚なのでしょう。けれども、こと放射線がからむと、必要なときに現場にいるために、不必要なときには少しでも現場を離れるということが大事になる場合もあるのです。
記者チームの構成に偏りがあったことは、別の不都合もあります。本書によれば、入手した吉田調書から2人の記者が見つけた「新事実」と称するものは、所長らが東日本壊滅というイメージを抱いていたことと、上記の「命令違反」の2つだけでした(p212)。朝日以外の新聞社が4か月おくれで調書を入手したときの報道でも、それ以上の事実は見当たりませんでした。はっきり言えば、吉田調書には、それまでの報道以上のことは出ていなかったということになります。
けれども、理科系のそれも放射線をよく知る記者が調書を読んだら、話は変わってくるかも知れません。たとえば、多めの被爆をした社員の中に女性がいた問題などはどうなんでしょう。一時、東電が散々たたかれた件ですが、その反論的な意見が吉田調書には見られます。今からでも追加取材をして深掘りしてはどうなんでしょう。もちろん、詳細はプライバシーの関係でぼかすにしろ。危機管理とジェンダーという切り口で記事をまとめることは可能だったと思うのですが……。
将来への教訓、懲罰より記録が有効
まとめとして、本書からは少し離れますがジャーナリズムというものの根幹に触れる問題を考えてみます。そもそも、吉田調書は何のために作られたのでしょうか。おそらく、事故の教訓を残して、今後同様の事故が起きたとき(あってはならないことですが)、正しく対応するための資料を、関係者の記憶が明確なうちに作っておくというものでしょう。
現代の失敗学の常識ですが、こうした調書を作る場合、供述する当事者の責任は社会的にも、経済的にも、もちろん刑事的にも追及しないことを、最初に宣言しえおくべきとされています。
現場にいたのが少数の専門家のみの場合、本人たちに都合の悪いことは黙っている(忘れたことにする)のは簡単ですし、法的にもその権利は明記されています。一方、将来の教訓として役に立つ内容は、少数者の記憶にしかないことがしばしばあります。当事者が処分を恐れて黙ってしまえば、貴重な教訓は永遠に(もっと悪い場合には、次に同様の事故がおこるまで)失われてしまいます。そうならないためには、過失に対する見せしめ的な懲罰よりも、正確に真実を語ってもらいそれを整理分析し記録を残す方が、よほど次の事故を防ぐためには有効だとなっています。
つまり、調査する側が関係者の処罰よりも事実の確認を重視するのは、メディアがニュースソースを秘匿するのと似たような、公益を守るための構造なのです。ただし、この考え方が成り立つ条件は、供述する当事者が調書を残すことの意味を理解し、どんなに些細と思われることでも、どんな不名誉なことでも、質問には誠実にこたえ、かつ分からないことは分からないと、誠実に対応することです。
吉田調書で所長が「本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ[56]」と言ったのは、「手の空いている者は全員2Fへ退避して被爆線量を減らす」という最善の命令を明確に出せなかったことの反省の表明で、結果的に部下の機転で救われたとはいえ、一時的にしろ命令系統を混乱させたことの経緯を記録に残すためだったのではないでしょうか。
さて、こういう微妙で専門的な場に、原発や東京電力に何か含むところのありそうな新聞記者が忍び込んできたらどうなるのでしょう。特に、今回のように功名心から大誤報をやらかしてしまい、発電所の所員の名誉を傷付け、おまけに最終的には自分たちの信用まで泥まみれにしてしまう挙に出たことの影響は甚大です。
今後は、政府や電力会社の隠蔽体質が強化され、それを世論が支持するようになります。そして何よりも、こうした調査が行われたとき、誤報付き漏洩によるバッシングを恐れて供述者が当たり障りのないことしか言わなくなり、本当に反省していることや危機一髪だった事実は墓場にまで持って行くようになることは重大な社会的損失です。
今後の重大事故時に、こうしたリスクを負ってでもメディアの取材の自由を尊重し、違法に収集した事故調書を公表し、ニュースソースという名の犯罪者の秘匿までを許すべきなのかは議論の余地のある問題です。
吉田調書の報道の社会的意味って?
公益のために責任追及を免れている当事者を、公益性に対して対しては自分勝手な判断をしがちなメディアが、場合によっては間違った理解に基づいてさらし者にすることは、今後、少なくとも世論が許さなくなっています。極端に言えば、「公共性を無視して記者がニュースソース名を秘匿した場合は、国会において承認関門を行い必要最小限の拷問を加えることを許す」という特例法が心情的には支持されているように思います。
そもそも、朝日新聞社による吉田調書の漏洩報道には社会的意義はあったのでしょうか。それどころか、今後の重大事故調査で、漏洩を恐れる関係者の証言を求めることが難しくなったのは確かでしょう。「おまえの父ちゃん。本当は逃げ出したんだってな」などと、子供が学校で言われるのは誰しも望みません。
一方、本書を読む限り、誤報部分を別にすれば、大したスクープは鮫島氏自身もその存在を主張していません。ならば、この「スクープ記事」の公益性など、もともと微々たるものだったと言わざるを得ません。
大変情けない結論ですが、まともに読解できる記者を用意できないのなら、経済部長が「われわれの手には負えない」と言った時点で、調書のコピーをニュースソース氏に返して、「忘れてくれ」というのが、公共性を考えれば朝日新聞社のやるべきことだったのかも知れません。
吉田「証言」問題の方でも同様の構図があるのですが、それは次回以降ということにさせてください。さらに情けない結論が出ないといいのですが。
法を犯して国家の秘密を漏洩するのは、よほどそれに勝る公共性があることに自信がある場合だけにするべきというのが、メディア関係者の常識でなければならないと思います。
「そんなのヤダ、ヤダ。知った秘密は全部公開するもん」とおっしゃる方は、公共性などさっさと忘れてパパラッチか、いっそのこと盗撮マニアにでもなったほうが、筋の通った楽しい人生がおくれそうです。捕まらなければですが。
鮫島本、最後のナゾ
最後に、個人的に興味のあるナゾを考えます。
ちょっと調べれば簡単にばれる「吉田調書には『すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機』という命令が書いてあった」というウソ(誤報を指摘され、真相を確認する時間が十分ありながら無視したらもはや誤報ではなく悪質なウソです)を再掲し、なんの説明も弁明もせずに「誤報では無く配慮のなさの問題だ」などと見苦しい言い訳を、鮫島氏はなぜ、世間の白い目を蒸し返してまでやっているのでしょうか。分別盛りの50歳が妄想三昧です。
この謎に一つの仮説を提示して長い長いこの記事を終わることにしましょう。人間というものは、自分が人生をかけて作り上げたものがひとたび絶賛されてしまうとその成果は自我の一部になってしまい、直後にそれがただのゴミだとわかっても諦めきれない動物なのではないでしょうか。そうなると、次々と妄想が浮かび、理論的な説得も損得勘定も全て脳裏から飛んでいってしまいます。基礎疾患に、朝日脳や傲慢罪があると重症化しやすい病気なのかもしれません。そして読者の側には、読了後、怒りよりも悲しさが訪れるというのが個人的な感想です。
そういえば、前にも同じような哀話がありました。日本中に響いたある女性の悲痛な叫び……。
「スタップ細胞は、あります」