モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、グループCカーの『アストンマーティンAMR1』です。
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ル・マン24時間レースや世界のGT3カテゴリーレースなど、アストンマーティンは現在、『アストンマーティン・ヴァンテージ』を使ったGTカーによるモータースポーツ活動を展開している。
かつて、アストンマーティンはGTカーだけではなく、プロトタイプカーカテゴリーに挑戦していたことがあった。その挑戦にはいくつかの例がある。2010年頃でいえば、オープンプロトタイプカーの『アストンマーティンAMR-One』の例もあるが、そのさらに前、アストンマーティンはグループCカーにもチャレンジしていた。その時に生まれたのが、今回紹介する『アストンマーティンAMR1』だ。
そもそもアストンマーティンは、1982年にスタートしたグループCカテゴリーにプライベーターのニムロッド・レーシングを支援するというかたちで関わっていた。しかし、1984年のル・マン24時間レースで起こった大事故によって撤退を余儀なくされてしまう。
時は流れ、5年後の1989年。同年からの参戦を目指し、今度はアストンマーティンワークスチームとして5ヵ年計画でのグループCカー・レースプロジェクトがスタートした。
このプロジェクトでは、プロテウス・テクノロジー(プロテック)という組織が実働部隊として車両開発を担当。プロテックのエンジニアリング・ディレクターに就任したレイ・マロックによってマシンの開発が指揮され、デザインはマックス・ボクストロームが手がけた。
そのシャシーに搭載されるエンジンは、アメリカのキャラウェイがアストンマーティンの5.3リッターV8の市販エンジンをベースにチューニング。このエンジンは、シリーズ2として最終的に6.3リッター仕様にまで高められた。
このような体制でマシンの開発が進められた『アストンマーティンAMR1』だったが、進行が遅れたうえ、1989年3月にはイギリスのドニントンパークでのテスト中にクラッシュしてしまう。
これが致命傷となり、本来であれば1989年の世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)の開幕戦である鈴鹿戦でデビューの予定だったのがずれ込み、第2戦のディジョン戦において初の実戦を戦うこととなった。
このディジョン戦においては17位完走という結果に終わったが、その後ブランズハッチ戦の4位という好成績を皮切りに最終戦まですべてのレースでシングルフィニッシュを果たすことに成功する。
さらに選手権戦には含まれなかったが、同年のル・マン24時間レースでも11位でフィニッシュ。まずまずの活躍を見せたのだった。
このようにデビューイヤーながら活躍を見せた『アストンマーティンAMR1』。1990年、1991年まで見据えた『アストンマーティンAMR2』の計画も進んでいたのだが、突如その計画は終わりを迎える。
その背景には、アストンマーティンは当時フォード傘下にある企業だったのだが、1989年に同じくグループCカー活動を行うジャガーが同じフォード傘下へと入ることになった。
それに伴ってフォードはジャガーの活動を優先する。アストンマーティンによるグループCカープロジェクトは終焉を迎えてしまった。成績から見れば1988年にル・マン24時間レースを制したばかりのジャガーが優先されるのは当然の結果だったと言えるだろう。
まだまだこれから飛躍の可能性もあったのに親会社の意向で道を断たれる……『アストンマーティンAMR1』とは、そんな悲運のマシンだったのだ。