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<p>【歴史シアター】愚策か良策か 民衆から酷評された女帝・斉明天皇の大運河工事</p><p>愚策か良策か 民衆から酷評された女帝・斉明天皇の大運河工事 渠について、石材がとれた豊田山と、石垣が出土した酒船石遺跡を結ぶ運河としたうえで、その経路に関する論考を、奈良大学の相原嘉之准教授が、会誌「条里制・古代都市研究」37号に発表し、注目されている</p><p>飛鳥時代の女帝・斉明天皇(594~661年)が実施させ、作業員を無駄に費やしたとして人々の謗(そし)りを受けたことが、『日本書紀』に記されている「狂心渠(たぶ…</p><p>反応 狂心渠の可能性が高い溝跡が確認された飛鳥東垣内遺跡。その脇に中の川(中央の水路)が今も流れる=奈良県明日香村 飛鳥時代の女帝・斉明天皇(594~661年)が実施させ、作業員を無駄に費やしたとして人々の謗(そし)りを受けたことが、『日本書紀』に記されている「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」。巨大な渠(溝)は、どういったものだったのか。渠について、石材がとれた豊田山(奈良県天理市)と、石垣が出土した酒船石遺跡(同県明日香村)を結ぶ運河としたうえで、その経路に関する論考を、奈良大学の相原嘉之准教授(日本考古学)が、会誌「条里制・古代都市研究」37号に発表し、注目されている。この運河は後の藤原京(同県橿原市など)造営にも活用された可能性があり、相原准教授は「非難を受けたものの、その後の利用を考えると、狂心渠の意義は大きく、斉明天皇には先見の明があったといえる」としている。 『日本書紀』では、「狂心渠」は斉明2(656)年是歳条に描かれている。「水工に渠(溝)を掘らせ、香(具)山の西から、石上山に至る。舟二百隻に石上山の石を(積)載し、流れに従って引き、宮の東の山に、石を積んで石垣とした」。この溝工事について、「狂心の渠だ。功夫(工夫=こうふ)を浪費すること三万人余、垣を造る功夫を費やし損すること七万人余。宮材はくずれ、山頂は埋まった」と人々が謗った、としている。さらに「『石の山丘をつくる。つくった端から壊れるだろう』と謗った」という。 舒明天皇の皇后だった斉明天皇は、舒明天皇の死後、皇極天皇として即位(642年)。都とした飛鳥板蓋宮は、息子の中大兄皇子(後の天智天皇)らによる蘇我入鹿殺害(乙巳の変、645年)の現場となったところで、これを機に弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位した。が、孝徳天皇の死後、再び即位(重祚=ちょうそ)して、斉明天皇となった。斉明天皇は、孝徳天皇が営んだ難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや、大阪市中央区)から、都を再び飛鳥に戻している。 特集・連載:</p>