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 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、全日本GT選手権に参戦した『ランボルギーニ・カウンタック』です。

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 イタリアの高級スポーツカーメーカーであるランボルギーニは、数多くのスーパーカーを生み出しながらも、1990年代に入るまで主だったレース活動をしていなかった。

 F1へは、3.5リッターNA時代の幕開けである1989年からエンジンを供給していたが、ランボルギーニ車を使用してのレース参戦はしていなかったのだ。

 しかし、今から遡ること28年前の1994年。1台のランボルギーニがレーシングカーに仕立てられ、日本のレースに参戦したことで、今現在に至るまでの流れを変えることになった。その1台が1994年の全日本GT選手権(JGTC)にエントリーした『ランボルギーニ・カウンタック』だ。

 JGTCに『ランボルギーニ・カウンタック』で挑もうと画策したのは、メンテナンスガレージのテライエンジニアリングを率いていた寺井輝昭であった。

 寺井は、日本のランボルギーニのオーナーズクラブであるJLOC(ジャパン・ランボルギーニ・オーナーズクラブ)の会長であり、イタリア本国のランボルギーニ本社とも関係の深かった則竹功雄に相談を持ちかけて、レース参戦の計画がスタートした。

 当初、JGTC仕様の『ランボルギーニ・カウンタック』は、『5000クアトロバルボーレ』をベースに製作されていた。しかし、シーズンの開幕に間に合わないことが判明。急遽、『25thアニバーサリー』を入手し、その個体をベースに開幕戦に向けてレースカーへと仕立てられた。

 “レースカー”ではあったのもの、外装はリヤウイングが少しモディファイされた程度。中身のサスペンション、トランスミッション、ブレーキはノーマルのままだった。軽量化もシートやヘッドライト、内張りの一部取り外しなどに留まり、車重も規定より50kg重い、1250kgだった。

 しかし搭載されるエンジンついては、“ほぼノーマル”とされていたものの、5.2リッターのV型12気筒で、最高出力は455ps以上という充分にレースを戦えるスペックを誇っていた。

 こうして誕生したレーシング仕様の『ランボルギーニ・カウンタック』は、“サーキットの狼”の作者である池沢さとし(現:池沢早人師)と和田孝夫のふたりのドライバーに託され、JGTC開幕戦を戦った。

 だが、トランスミッションやブレーキにトラブルを抱えてしまい、まともに戦うことはできなかった。なんとかチェッカーを受けたものの、リザルト上では完走扱いにならなかった。

 その後、『ランボルギーニ・カウンタック』は第2戦以降にブレーキやトランスミッション、サスペンションを強化。さらにフロントラジエター化が施されるなど、徐々に進化していったが、目立った成績を残すことはできなかった。そして『ランボルギーニ・カウンタック』によるJGTCヘの挑戦は、1994年限りとなった。

 しかし、ランボルギーニ車でのJGTC参戦がこれで終わったわけではなかった。車両をディアブロへ変更し参戦は継続されたのである。しかもその参戦車両であるディアブロは、ランボルギーニ自体が手を加えて、レーシングカーに仕立てたモデルだったのだ。参戦2年目にしてランボルギーニ本社を動かしたのだった。

 そして歴史は脈々と続いていき、今もなおランボルギーニユーザーとしてJLOCは、スーパーGTのGT300クラスへと参戦し続けているし、その参戦マシンである『ランボルギーニ・ウラカンGT3 EVO』は、世界中のGT3レースで愛用されている。

 それもこれもすべて寺井、JLOCが『ランボルギーニ・カウンタック』でJGTCへと参戦しなければ始まらなかったこと。この『ランボルギーニ・カウンタック』とは、今日のランボルギーニ車によるレース活動のはじめの一歩となった偉大な1台なのだ。

1994年の全日本GT選手権第2戦、仙台ハイランド戦でシーズン最上位となるGT1クラス8位でフィニッシュしたレインX・アート・カウンタック。またこのラウンドではリヤウイングの形状など、外観のモディファイも施されている。
1994年の全日本GT選手権第2戦、仙台ハイランド戦でシーズン最上位となるGT1クラス8位でフィニッシュしたレインX・アート・カウンタック。またこのラウンドではリヤウイングの形状など、外観のモディファイも施されている。