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【編集部より】SAKISIRUが創刊した昨春の同時期、SBIグループで初めて本格的なシンクタンクとして、次世代・デジタル金融を調査研究するSBI金融経済研究所が誕生、初代理事長に就任したのが政井貴子さん(前日本銀行審議委員)でした。

政井さんは1986年の男女雇用機会均等法の施行2年後、外資銀行に入行。欧米の外銀に勤務ののち、新生銀に入行。同行で初の女性執行役員に就任。さらに日銀で初めての公職を勤め、昨年から同研究所トップとして活躍中です。

一見華麗な経歴を重ねてきた裏で、10代の頃は英語が不得意だったという意外な過去を明かす政井さん。文学部卒で金融の世界に飛び込みキャリアを構築。そして40代を迎えた時、大学院で学び直したことが後の転機につながります。政井さんと新田編集長が「女性とキャリア」について本音で語ります。(収録は5月下旬に行いました)

高校時代、英語が得意でなかった

【新田】政井さんが社会人になられた頃、均等法が施行された直後とはいえ女性の総合職自体がまだ多くなかった時代。しかも大学まで日本で過ごされていたのに、外資の銀行に飛び込んで、そこからキャリアを築かれていくのは今の大学生でも度胸がいるなと思いますが、どうしてまた外資に行かれたんですか?

【政井】実は皆さんに思われるほど戦略的ではなかったのです。当時、均等法は施行されていましたが、日本企業は、女性の総合職採用は「鋭意検討中」という会社がまだ多かった。学生ながら「検討」と「導入済み」の違いはなんとなくわかって、魅力的ではなかった。一方で当時はバブルに向かっていく頃、今にして思えば、外資系の金融機関は業容拡大中で、人手不足だったと思います。

【新田】大量採用の時代、男子学生は日本企業に続々入ってしまった?

【政井】かもしれませんね。人材確保が外資の東京支店で課題となる中で、元々、日本よりも男女の雇用についてフラットだった欧米外資系企業にしてみれば、均等法施行後、女性キャリアを採用しやすい環境が整ったとも言え、日本人の女性にもチャンスが生まれたのでしょうね。時代のニーズにマッチしたのだと思います。

【新田】大学時代は文学部英文学科。英語は自信がおありだったのですか?

【政井】実は高校生の頃から英語は決して得意とは言えなかったのです。

【新田】またまたご謙遜を…(苦笑)。

【政井】本当なんですよ。不得意だからこそ英文学科を選択して入学したのです。それで就活をする頃には、なんとかある程度使えるようになってきていたので、どうせなら、英語も必要な仕事につくことで、維持したいなと漠然と感じていました。語学力は筋力と同じですから、使わなくなれば低下しますからね。そういう思いもあって、最終的に外資銀行に入行するということに落ち着きました。

政井貴子(まさい・たかこ)広島県生まれ。実践女子大学卒業後の1988年、ノヴァ・スコシア銀行東京支店に入行。その後2つの外銀を経て2007年新生銀行キャピタルマーケット部部長に。13年同行初の女性執行役員。16年には日本銀行で審議委員に就任(女性では4人目)。21年6月、同委員を任期満了で退任し、SBI金融経済研究所取締役。現在は同研究所理事長。三菱ケミカルホールディングス、飛島建設等の社外取締役も務める。

【新田】しかし20代後半の頃はバブルが崩壊。3社目の外銀に入られた1997年といえば北海道拓殖銀行や山一證券が破綻した「金融大恐慌」イヤー。一時は、金融の仕事を続けるか悩んで、医師にキャリアチェンジしてお母様のご実家の病院を継ぐことも考えられたとか。 

【政井】結局3社目の内定を受けた時、2社目の銀行には、10年程勤務していましたから、内定先で同様の勤務期間を過ごすとすれば、40歳ぐらいになる。そこからの180度転身は、体力やキャリアデベロップメントなどさまざまな観点からもう難しいだろうと思いました。ですので、30代前半だったあのタイミングで金融でキャリアを積む転職をするということは、他の業種に転身するという選択肢はもう無くなるな、とある意味、腹をくくったように記憶しています。

【新田】残っても金融界は大変な時期。その中でもやりがいをどう見つけたのですか。

【政井】法人営業の仕事をしていたのですが、お客様が信用確保に苦労される中、海の向こうで疑心暗鬼を募らせる本店の安心をなんとか維持することで、取引が突然停止したりすることがないよう、お客様と本店の間の調整に奔走しました。日本が本当に大変な時でしたので、だからこそ正攻法で、お客様のお役に立つことは何か、自問自答していたと記憶しています。やりがいというより、生き残ることに必死だったという感じでしょうかね。

リカレントの“先駆け”

【新田】勝手ながら、政井さんのキャリアの転換点だと僕が思ったのが2005年から、法政大学のビジネススクールで学ばれたことです。今でいうリカレント教育だと思うのですが、どうしてまた一念発起して大学院へ?

【政井】大学の専攻が英文科で、経済や金融を一度体系的に整理する必要があるなと感じていましたし、周囲にも勧められていました。それでも学ぶ時間がなかなか取れなかったのですが、当時の勤務先が他行からの事業譲渡で資産査定をするタイミングに重なって新規取引がストップしたんです。それで米国CPAか証券アナリストを取るか、あるいは大学院に行くかで考えた末に大学院に決めました。

新田哲史(にった・てつじ)1975年生まれ。読売新聞記者(運動部、社会部等)、PR会社、言論サイト編集長などを経て2021年サキシルを創刊、編集長に就任。

【新田】会社から補助みたいなのはあったのですか。 

【政井】当時はそういう時代じゃないので学費は自分の負担。業務に支障が生じないよう夜間大学院で学び、修士論文のテーマは為替価格のマイクロストラクチャーを選びました。

【新田】まさにご専門ですね。実際に学び直しをしてその後よかったことは?

【政井】私の場合は、夜間大学院で特別にすごいことを習得できたと言えるわけではないです。ただ、学部で経済学を学んだ人が標準的に見聞きしているであろうことには最低限キャッチアップできたと思いますし、企業価値ひとつを学ぶにも自分の知らない観点を知ることができましたね。

何よりも、それまで実務で見聞きしてきたことを多少なりとも理論的に一つ一つ繋ぐことができたのは良かったです。こうした知識は、その後も何か新しいことを知る必要が出て調べる際、ある種の“当たり”がつけやすくなるのに大いに役立ちます。知らないことの“穴埋め”の作業が効率的にできるようになましたし、振り返ってみれば、夜間とはいえ、大学院で過ごした経験はその後の仕事でも物事の整理の仕方などをはじめ、役に立っていると思います。

撮影:武藤裕也

【新田】政井さんが学び直しをされた時代と比べても産業の栄枯盛衰は年々激しくなるばかりです。SAKISIRUの読者は30〜40代が多いのですが、特にこの団塊ジュニア以下の世代は社会人になった直後から世の中の変化に翻弄されてきたこともあり、団塊などの上の世代よりも学び直しの重要性は感じているはず。

一方で学び直したいとは思っていても、どうすればいいのか、何を学べばいいのか、悶々としたまま時間がどんどん過ぎてしまっている人も少なくないと思うのですが、政井さんから、アドバイスすることがあれば。

【政井】私は為替というキーワードを軸に自分の知識や業容をちょっとずつ拡張させていきました。結局のところ、キャリアを重ねるほど、いまその時点で手に持っているものを発展させることが最も効率的な選択のように思います。

そういう私も実は、為替関連業務がどうしてもやりたかったわけではなく、金利やデリバティブのように当時一層華やかだった分野に行きたかったのですが、なかなか、叶いませんでした。そうして、ちょっと悶々としている時、当時お世話になっていたとある投信会社の部長さんに「一つのことをずっとやることにも意味があるから、やってごらんなさい」と言われたことがありました。ご本人は覚えていらっしゃらないかもしれないですが、人生で出会う、ちょっとした言葉を大切にして実践してきたことはあるかもしれません。

【新田】アラサーとかアラフォーだと隣の芝が蒼く見えることが少なくないのですが(苦笑)「餅は餅屋」という言葉があるように、アラフォーは、それまでのキャリア経験をリセットするのはもったいない一面も。 

【政井】ちょうど大学院を出て数年後、糸井重里さんが脳研究者の池谷裕二先生と出された共著のタイトルが「海馬は眠らない」で、なるほどと思ったんですね。