2008年に秋葉原殺傷事件で無差別に7人を殺害、10人に重軽傷を負わせた加藤智大死刑囚について26日、死刑が執行された。1982年生まれの加藤死刑囚の犯行と結末について、どう見たら良いか。『1982 名前のない世代』(宝島社)の著者で83年生まれの作家の佐藤喬(たかし)氏に、見解を聞いた。
「大きな物語」持たない最初の世代
事件以降、さまざまな有識者やメディアが事件の解釈を行ったが、深読みし過ぎることの弊害もあるのではないかと佐藤氏は指摘する。
加藤智大死刑囚については、犯行の動機や社会背景など、様々な意味づけや解釈がされてきました。非正規雇用やネット社会の問題などと絡めながら、象徴化されすぎた面もある。事件を読み解く上で一定の分析は必要なのですが、過剰な意味づけは物事を単純化し過ぎてしまう危険性がある。今回の出来事を敢えて突き放して言えば、「殺人犯が死刑になっただけ」とも言えるのです。
佐藤氏は安易な世代論からは距離を取りたいとしながらも、それでも世代によって語れることはあるという。
1982年生まれという世代は氷河期世代やゆとり世代に挟まれた世代であり、形容し難い「名前のない世代」と言えます。この世代はネット空間の出現やメディアの多様化により、統一のコンセンサスや共通の価値観、いわゆる「大きな物語」を持たなくなった最初の世代。この世代以降、出来事や世代について端的な意味づけがしにくくなったと言えます。
社会のわかりにくさで抱えるストレス
昭和の頃は善悪や幸不幸の価値観がある意味単純だったが、加藤死刑囚が社会に出る頃から、必ずしもそうではなくなった。有り体に言えば、何が幸せか分からない時代になったということだろう。
多くの人が意味づけに飢えており、それは換言すれば、現代社会の分かりにくさに、皆がフラストレーションを抱えているということかもしれません。
安倍元首相を銃殺した山上徹也容疑者は1980年生まれで、加藤死刑囚とほぼ同世代と言える。
山上徹也容疑者と加藤智大死刑囚はいずれも不遇な幼少期があり、非正規雇用で社会から孤立していたなど、確かに一定の共通点はある。ただし、同じような立場にいても、999999……%以上の人は殺人などしない。新興宗教の被害者は無数にいますが、そのなかで元首相を銃殺したのは山上容疑者1人だけです。事件の背景やきっかけを知ることは重要ですが、それがすべてとも言えないのだと思います。
世代や社会情勢、各人の家庭環境は、確かに個人の考え方や行動に大きな影響を与える。ただし、それだけですべてが解明できるわけではない。
加藤死刑囚の著書のなかには、犯行理由を分かりやすいストーリーで語られることを拒むような記述もあります。なぜ人を殺したのか、本人にも完全には分かっていないのかもしれない。犯行理由を完全に説明することなど誰にもできないのかもしれませんが、それでも、考察することには意義があると思いたい。
現代社会は複雑である。