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 ナナサンマルとは1978(昭和53)年7月30日のことで、沖縄県の道路通行方式が右側通行から左側通行に変更された日付に由来する。1972(昭和47)年5月15日に米国から沖縄が返還されて6年目の出来事だった。

 沖縄返還後、ナナサンマルは「本土一体化」の一つの大きな象徴として捉えられる出来事であった。しかし、道路通行方式の変更は交差点や信号の構造、マイル表記からキロ表記の変更のみならず、道路を通行するバスやバス停など多岐にわたる対策が必要であった。

 県民の足として活躍を続けるバスの大改革の日としてもナナサンマルは多くの人の記憶に残るものとなった。

 今年は沖縄復帰50年の節目の年となるが、本日7月30日「ナナサンマル」にあたって44年前に何が行われたのか、2台だけ残る生き証人のバス車両の紹介を含めて改めて振り返ってみたい。

文/写真:石鎚 翼(特記をのぞく)


クルマは右側通行で速度表示もマイルだった

ずらりと並ぶナナサンマル車。90年代半ばまで、沖縄本島の路線バス車両はナナサンマル車が過半を占めた。数が多く、老朽取換えがなかなか進められなかったのも一因

 今年度上期のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」は沖縄が舞台である。山原地方に住む主人公たちが町へ出かける際に利用するバスが左ハンドル車であることに気づいた方も多いと思う。太平洋戦争によって米国に占領された沖縄は、米軍の軍令によって米国と同様、車両の右側通行が指示されていた。

 その後1947(昭和22)年には、沖縄民政府(米国統治下における行政機関)による政令によって、右側通行が法制化され、1978年までの間、この状態が続いた。もちろん米国統治下では通行方式のみならず道路標識のデザイン、速度指示の単位(kmではなくマイル表示)も米国に倣ったものとされた(マイル表示は通行方式変更に先立ち、1968(昭和43)年にメートル法を適用)。

キャンプ・ブーンに集結した各社の新車。何台並んでいるか、判別がつかないほどだ(写真提供/日本バス友の会)

 1972年に米国から沖縄が返還されると、日本政府は「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」を策定、地方自治の体制や通貨、教育など多岐にわたる制度を本土同様にすべく作業に着手した。この法の中で、道路交通については右側通行を存置しつつ、日本の道路交通法を適用し、必要な準備期間(3年以上)を経過したのち、政令によって左側通行に変更する、とされた。

 これがナナサンマルの法的根拠である。これをもとに、1977(昭和52)年9月に「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律第五十八条第一項の政令で定める日を定める政令」が公布され、ここで1978年7月30日に道路通行方式を変更することが定められた。

車両の改造や導入や道路インフラの整備が同時に行われた

いすゞBU04(那覇交通)。沖縄本島のナナサンマル車は運行事業者ごとに製造メーカーが振り分けられていた

 バスについては自家用車と異なり、左ハンドル車のままでは旅客の乗降に支障し、営業走行ができないことから、この日に合わせて大量の右ハンドル車を調達する必要があった。しかし沖縄県内各バス事業者の財政事情から、車両新造・改造の負担は重く、多額の補助が用意された。

 これをもとに沖縄全県で1019台の新車、167台の右ハンドル改造が実施され、交通方式変更に備えることとなった。短期間で大量の車両をそろえる必要があったことから、主要事業者については、製造能力に鑑みてメーカーが振り分けられた。

 沖縄バスは三菱、琉球バス(当時)は日野・日産ディーゼル、那覇交通(当時)はいすゞ、東陽バスは日野車が導入された。この時に導入された右ハンドルバスはその後、通称「ナナサンマル車」と呼ばれた。

 道路のインフラについては順次事前工事が進められ、交差点の左折インカーブ側の拡幅、新たな方向の信号・標識の建植、バス停の設置が行われ、左側通行で使用する標識類はカバーがかけられて誤認を防ぐ形とした。道路脇のバスベイも交差点付近にあるものは移設が必要となるものもあった。

 加えてバスやタクシーのドライバーは各社で独自の訓練も実施したが、あまり早期に実施するとまだ右側通行であった通常の運用時に混乱する可能性があるとして、直前まで訓練が許されなかったという。

前夜、それは一気に行われた!!

7月30日05:50、車両は右から左へ移動。警察官が誘導している(写真提供/日本バス友の会)

 ナナサンマルの前夜、1978年7月29日は、22:00をもって全島通行止めとなり、緊急車両と許可車両以外は通行できない状態として前述の標識類のカバーを取り外し、今度は右側通行用の標識類にカバーが取り付けられた。

 必要となる新たな路面表記はシールで隠されており、そのシールを剝がすことで視認可能となった。変更が必要な標識は3万本、信号機は500機に上ったという。

 信号機類の試験や交通整理員の配置を経て、本島での作業は翌7月30日の4:18に完了(県土木部管理道路)、6:00に左側通行での運用が開始され、新たに登場した右ハンドルのバスも一斉に運用が開始された。

7月30日06:00、右側通行がスタートした(写真提供/日本バス友の会)

 しかし、ほぼすべてのドライバーが一般道での左側通行は初めての経験であり、那覇市内などでは随所で渋滞が発生したという。利用者も、前日とは道路の反対側でバスを待つべきところ、反対方向のバスに乗ってしまうケースも多かったらしい。

 加えて事故も多発し、バスでは左折時の接触、誤認した乗用車との事故などが多かったとされ、中にはバスが路肩から転落する事故もあったとされる。しかし、交通死亡事故は変更後32日間ゼロであったとか。なお、切換後も交通島の整備や道路鋲などの残工事が続けられた。

残りわずかとなった歴史の生き証人のバスたち

日産ディーゼルU20H(琉球バス)このU20型もH尺のほか、L尺も導入された。いずれも冷房車である

 ナナサンマルに合わせて導入され、沖縄県内で多数活躍したナナサンマル車も寄る年波には勝てず1990年代から次々と引退し、現在通常運用されている車両はない。しかし沖縄バスと東陽バスで1台ずつ保存されており、ルートや時間を限定して運用されることがあることから一般の乗車も可能だ。

 沖縄の本土返還、そして通行方式変更という歴史を物語る生き証人といえよう。そして7月30日にはナナサンマル車の特別運行も行われる。これを機に沖縄の歴史に思いを巡らすのもいかがだろうか。

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